偉人・坂本龍馬の魅力を発信!『知っちゅうかえ、龍馬?』Part.8

  

高知県立坂本龍馬記念館    イマナニ体験レポート

エピソード:脱藩のあれこれ

皆さんこんにちは!高知県立坂本龍馬記念館です。
本館スタッフが、知られざる坂本龍馬の素顔をご紹介していくこのコラム。

第8回となる今回は、龍馬の「脱藩」についての裏話をお話したいと思います。
坂本龍馬は文久2(1862)年3月25日、数え年28歳の時に、土佐藩の梼原から大洲藩領を通って脱藩しました。

脱藩後の行動や手紙から考えると、彼の脱藩の目的は「日本に海軍を興すこと」だったようです。
外国からの脅威に備えて、蒸気船による海軍の必要性を考えていた龍馬。

その後彼は、幕府の軍艦奉行並という役職だった勝海舟の門下生となり、海軍の修業に励みます。
龍馬は勝の事を「日本第一の人物」や「天下無二の軍学者」と姉・乙女に報告しており、大変尊敬していました。
そんな勝海舟ですが、来年は彼の生誕200年という記念すべき年ともなっていますよ。
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当時の藩境辺りの山々の現在の景色。この山道を抜けて、龍馬は改革へと走り始めました
当時の藩境辺りの山々の現在の景色。この山道を抜けて、龍馬は改革へと走り始めました 文久3年3月20日に書かれた乙女宛(複製)の手紙。勝海舟への尊敬の念が伝わります
この「脱藩」を語る上で、当時の時代・政治背景についても少し説明しておきましょう。
当時の藩には大名(領主)がおり、大名には政治を行う権利や裁判権、軍事権などが認められていました。
したがって一つの藩は、現在の国のようなものと考えて良いと思います。

藩から出る時には現在のパスポートに当たる往来手形が必要だった点も、より「国らしい」部分ですね(実は龍馬は脱藩の際、往来手形をどのように入手したのか分かっていません)。
しかし一方で、この「藩」という名称は、実は江戸時代ではほとんど使われていません。

多少幕末の時代には使用例が見られましたが、多くは明治2(1869)年の版籍奉還から明治4年の廃藩置県までの、たった2年足らずの呼称です。
そのため脱藩という言葉も明治以降に定着した言葉で、江戸時代には「出奔」や「欠落(かけおち)」という言葉が用いられていました。
つまり本来は「龍馬脱藩」ではなく「龍馬出奔」が正しい言い方と言えますね。
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当時の土佐藩領主・山内容堂の写真(当館所蔵)。名藩主として今も名高い人物です
当時の土佐藩領主・山内容堂の写真(当館所蔵)。名藩主として今も名高い人物です 龍馬の甥・高松太郎の往来手形(当館所蔵)。龍馬はどうやって脱藩したのでしょうか…?

当時の脱藩=重罪!?残された龍馬の家族たちはどうなった?

さて、それでは実際に脱藩した人や、その家族はどうなるのでしょうか。
脱藩は「藩主を見限って出て行くこと」ですので、当時はかなりの重罪行為だといえます。

龍馬関係の書籍などでは「脱藩は家族にまで類の及ぶ重い罪だ」と書かれることがありますが、これは正しくもあり、間違いでもあります。
なぜなら脱藩した本人がどういう立場かで、処罰が大きく変わってきたからです。

当時は、「家」が今以上に重要な時代。
家の当主や跡継ぎが脱藩すると身分や役職を没収されるため、家族全員が路頭に迷います。
しかし、脱藩する人が龍馬のように次男以下だった場合は、本人だけの問題になります。
ですので、その場合は、本人さえ罰を受ける覚悟があれば良かったのです。
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本来であれば重罪の脱藩…龍馬が次男坊だったからこそまだギリギリ許された事でした
本来であれば重罪の脱藩…龍馬が次男坊だったからこそまだギリギリ許された事でした 龍馬の生まれた坂本家の家系図(複製)。兄・権平と弟・龍馬の字がはっきりわかります
龍馬の生まれた坂本家は「郷士御用人」という下級武士の身分で、龍馬の兄・権平が当主でした。
彼は長男の富太郎をわずか5歳で亡くしています。

そのため彼の実子は娘の春猪だけとなり、その結果権平は21歳年下の弟・龍馬を養子に迎え、坂本家を継がせようと考えていました。
しかし龍馬は兄の養子にされると、当然家に縛られることになります。

そうなる前に、と脱藩を決行した龍馬でしたが、それによって当然兄の権平は彼に対してとても怒りました。
しかし龍馬が勝海舟の下で海軍修業に励んでいることを説明すると、彼は兄として弟のやりたいことを理解し、許してくれたのです。
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その後兄・権平は別の人物を養子に迎え、坂本家をきちんと存続させています
その後兄・権平は別の人物を養子に迎え、坂本家をきちんと存続させています 当館の「幕末写真館」には、龍馬を支えた家族や周囲の人物についての写真も
龍馬の手紙を見てみると、節々から兄に対して最大限の敬意をもって接していることが伺えます。
同時に兄である権平は龍馬からの要望(刀が欲しいなど)をすぐに叶えてくれる優しさがありましたので、二人は大変仲の良い兄弟だったとも言えますね。

しっかり者の兄が家を、坂本家を堅実に守ってくれたからこそ。
龍馬は家や藩を飛び出して、日本や国のために大胆な働きかけをすることができました。

龍馬の活躍の裏には、そんなふうに彼を支えた陰の立役者たちが、兄・権平だけでなく大勢いたのでしょう。
彼らからの信頼や期待もたくさん背負いながら、龍馬は日々日本の明るい未来のために奔走していたのです。
高知県立坂本龍馬記念館
開催時間/9:00~17:00(最終入館は16:30)、定休日なし
開催場所/高知県立坂本龍馬記念館(高知県高知市浦戸城山830)
駐車場/あり 普通40台・障害者用2台バス4台
料金/あり 企画展期間700円 展示替期間500円 高校生以下無料
問い合わせ先/高知県立坂本龍馬記念館 TEL.088-841-0001
URL/https://ryoma-kinenkan.jp
reported by 高知県立坂本龍馬記念館