偉人・坂本龍馬の魅力を発信!『知っちゅうかえ、龍馬?』Part.7

  

高知県立坂本龍馬記念館    イマナニ体験レポート

エピソード:日本のせんたく その1

皆さんこんにちは!高知県立坂本龍馬記念館です。
本館スタッフが高知出身の偉人・坂本龍馬にまつわる、ユニークなエピソードを紹介する本コラム。

第7回は龍馬にまつわる有名な台詞に関する豆知識を解説致しましょう。
坂本龍馬が残した言葉の中でも特に有名なのが、「日本を今一度せんたくいたし申候」というもの。

知っている方も多いであろうこのフレーズは、当時29歳の龍馬が文久3年(1863)6月29日に姉・乙女宛てに書いた手紙の中に記されたものです。
実際の手紙には「せんたく」が平仮名で書かれているので、これは「洗濯」ではなく「選択」ではないかと考える人もいるようですが、当時の龍馬の行動やそれにまつわるエピソードから見ると、どうやら前者の「洗濯」が正しそうだ、と予想できるようになっています。
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記念館には龍馬の手紙や羽織など、彼の生きた証を感じられる資料が満載です
記念館には龍馬の手紙や羽織など、彼の生きた証を感じられる資料が満載です 文久3年6月29日姉乙女宛(複製・部分、原資料は京都国立博物館所蔵)
この手紙より3か月前、龍馬は幕府重臣の大久保忠寛を訪ねています。
対面後の大久保は龍馬を非常に高く評価し、前福井藩主・松平春嶽に「このような志士を登用するべきだ」と推薦する手紙を送っています。

さらに大久保は「『(志士たちは)世の中一洗い致すべし』と言っている」と書いており、このことから考えて、「日本を今一度せんたくいたし申候」の「せんたく」は「洗濯」で間違いないでしょう。

それでは、なぜ龍馬がそんな考え方を持つようになったのか。
それはちょうどこの手紙が書かれた時期に起きた、ある大きな事件がきっかけとなっていました。
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大久保忠寛(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)
大久保忠寛(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より) 松平春嶽(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

音もなくせまる日本の危機―国を守るため龍馬は「日本のせんたく」に立ち上がる!

龍馬がこの手紙を書いた1か月半ほど前の文久3年5月10日。
この日は幕府が朝廷に対して「この日までに攘夷(外国を打ち払うこと)を実行します」と約束した日でした。

しかし、幕府側は本音では「攘夷は不可能」と判断していた様子。
そのため攘夷を実行することは結局なかったのですが、そんな中で長州藩が領地の下関で外国船を砲撃したのです。

当然外国は怒って長州藩に報復攻撃を仕掛けてきますが、本来であれば長州藩の砲撃=攘夷行動は幕府も実行しようとしていたこと。
ですが、この時幕府をはじめ全ての藩は、長州藩を助けたり味方をすることなく、彼らを見捨てようとするのです。

この一連の流れを見た龍馬は、長州藩を見殺しにする幕府のやり方に憤り、幕府の役人を打ち殺してでも「日本を洗濯したい」と強い決意を手紙にしたためました。
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ペリーの黒船来航は1853年。開国から10年、日本の立場はまだまだ不安定なまま
ペリーの黒船来航は1853年。開国から10年、日本の立場はまだまだ不安定なまま 実際に手紙に書かれた文面も、本記念館ではじっくり鑑賞する事が可能です
この一連の事件は確かに長州藩の暴走かもしれません。
しかし当初、攘夷の実行は幕府の決定事項でした。

今回それを守らなかったことは幕府の失策ですし、さらに言えば、朝廷に対して、攘夷実行という不可能な約束をしたことがそもそもの原因でもあります。
龍馬はこれがたとえ長州藩の暴走だとしても、日本の一部が占領されかけている状況は、決して見過ごすことができないと考えていました。

それを見て見ぬふりをする幕府や役人を「洗濯」しなければならない、という内容が、あの言葉の本質的な意味となります。
幕府が役に立たない中、それでも自分ができることを、と奔走した龍馬。

彼は「日本のせんたく」の手紙を書いた頃、連日京都の福井藩邸を訪れています。
そこで重臣の村田巳三郎に面会し、福井藩が幕府を説得して、長州藩の救助に動くよう主張していたようでした。
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海を越えた他国と対等に渡り合える日本を作るため、多くの人が奔走する時代でした
海を越えた他国と対等に渡り合える日本を作るため、多くの人が奔走する時代でした 龍馬もまた、この頃からすでに狭い国内だけでなく世界に目を向け始めています
福井藩の資料の中には、「一旦異国の有に帰する時ハ、再ひ是を挽回するハ難かるへし」という龍馬の主張が記されています。
これは、一度外国に土地を占領されれば、それを再び取り戻すことは難しい、という意味です。

今、何が何でも長州藩を救わなければ、取り返しがつかないことになる、という彼の主張。
これはアヘン戦争後にイギリスへ割譲された香港や、日本の北方領土などを思えば、非常に優れた知見であるとも言えるでしょう。

下関では翌年元治元年(1864)7月27日から、外国による本格的な報復攻撃が始まり、長州藩は前田砲台などを占拠され敗北します。
幸いなことに領土の割譲は行われず、龍馬の心配は杞憂に終わりました。

それでも彼は、日本全体を考えることのできない幕府役人への不信感を強く持ちます。
その思いは次第に彼の中で、「洗濯」から「倒幕」へと形を変えることとなったのでした。
高知県立坂本龍馬記念館
開催時間/9:00~17:00(最終入館は16:30)、定休日なし
開催場所/高知県立坂本龍馬記念館(高知県高知市浦戸城山830)
駐車場/あり 普通40台・障害者用2台バス4台
料金/あり 企画展期間700円 展示替期間500円 高校生以下無料
問い合わせ先/高知県立坂本龍馬記念館 TEL.088-841-0001
URL/https://ryoma-kinenkan.jp
reported by 高知県立坂本龍馬記念館