戦国時代の松山・道後の人々の暮らしって?遺跡の中にある資料館「湯築城資料館」
愛媛/松山ミュージアム Vol.6 湯築城資料館
愛媛松山が全国に誇る観光地でもある温泉街・道後。
その街の南側に位置する市民の憩いの場が、ご存知道後公園ともなっています。
特に春は満開の桜を見に、大勢の人々が訪れるこの道後公園。
実はそんなこの道後公園の南側に、遺跡を要する歴史的な資料館があることを、皆さんは知っていますか?
元々現在の道後公園は南北朝~戦国の時代(14世紀前半~16世紀末)にかけて、河野氏というお殿様が治めていたお城「湯築城」がありました。
現在私たちが生きる2022年からおよそ500年以上も昔。
歴史の教科書などでは数多の有名な武将が活躍する、戦国時代の話を聞いたことはあるという人もきっと多いはずです。
そんな500年も昔の人がこの地でどんな服を着て、どんな食事を食べて、どんな生活を毎日送っていたのか。
簡単に想像できる、という人はきっと少ないのではないでしょうか。
それでも、間違いなく当時この松山で生きていた人々。
彼らの生活を知ることができる非常に貴重な資料が展示されているのが、この湯築城資料館なのです。
道後公園には毎年お花見で行くけど、公園の南側にはあまり足を運んだことがないかも。
お城跡や資料館があるのは知ってるけど、どんな資料や展示があるの?
そんな皆さんの疑問に答えるべく、今回はそんな湯築城資料館の見どころを簡単にご紹介!
私たちの身近なところにある、500年前の歴史が眠る遺跡。
河野一族の栄華と誇りを垣間見ることのできる湯築城跡の魅力を、ぜひ知って頂ければと思います。
道後動物園の跡地に開館!湯築城資料館がこの地に出来た経緯とは
私たちに馴染みのある道後公園の正式名称は、国史跡道後公園湯築城跡。
実はこの公園の南側一帯は、発掘調査を元に当時の立地や区画を復元した、復元区域となっています。
その復元区域の中にある建物が、今回ご紹介する湯築城資料館です。
元々この復元区域は、現在は砥部町にあるとべ動物園の前身・道後動物園があった場所。
1953年に開園したこの動物園ですが、観光地・道後の開発によって1987年に移転閉園。
砥部へ場所を移すこととなり跡地を庭園にするべく整備を行っていた所、残りの良好な生活の痕跡や歴史的価値のある出土品が発見されたことが、資料館建設のきっかけともなっています。
整備のための発掘から、学術的調査の発掘へと切り替えられた湯築城跡。
その後発掘された様々な展示品を展示するための資料館として、建物や区画一帯が2002年にオープン。
この地に根付く約500年前の人々の暮らしを語り伝える場として、今日まで多くの人に親しまれています。
資料館の最も大きな特徴は、たったひとつの建物のみに収まりきらないその展示内容!
建物一帯のエリアがまるごと復元区域となっているため、言わば遺跡の中に展示資料館があるようなもの。
資料館内に当時発掘された痕跡が復元されていたり、何の変哲もない公園に見える広場も、戦国時代の区画整備の名残をほぼそのままに復元しているんです。
敷地内には実際に当時その場所にあった石積や土壁、排水溝や門戸、建物などを、調査結果を元にして復元。
広場を歩く私たちが見る景色は、そのまま500年前の人々ももしかしたら見ていたかもしれない景色として作られているんです。
この遺跡復元は、発掘調査が行われたエリアの中に資料館があるという独特な立地と展示方法だからこそ成せる仕組み。
そんなことを考えながら復元区域を散策すると、見慣れた木々や景色もいつもとは少し違う見え方になるかもしれませんね。
500年前の人々の暮らしを垣間見る…3つの展示資料館を見学しよう
復元区域の中には、このエリアから発掘された出土品や資料を展示する建物が大きく3つ。
中でも資料館と武家屋敷1と呼ばれる施設があるエリアは家臣団居住区と呼ばれ、土壁や石列で細かく区画された空間に建物が配置されていることから、そのように性格づけられています。
その中でもまず皆さんが最初に訪れるのが、本館のような位置づけの湯築城資料館です。
ここは発掘された出土品などを中心に、それらから読み取れる当時の人々の暮らしなどを解説したパネルが合わせて展示されています。
出土品の多くは、当時の食事や宴の席などで日常的に使われていた食器がメイン。
ですが一言で器と言っても、土を素焼きしたものから、食料品の保存や調理に使われていたすり鉢や甕まで非常に多彩な種類のものがあります。
また中には中国など海外から輸入された器もありますが、その他に朝鮮半島やタイから輸入されたものも。
戦国時代にこのような器を手に入れるとなると、方法は途方もない時間をかけての船輸入一択のみ。
湯築城の城主である河野氏が、瀬戸内の海を行き来する海賊衆との関係があったことも、そういった海外の物を手に入れやすい環境の理由のひとつだったようです。
さらに当時はこれらの器を宴の席の後で使用した後は捨てていた、というのも非常に面白いポイント。
復元区域の中には、たくさんの土器が捨てられていたゴミ穴があったことも明らかになっています。
今でこそ紙製の食器を使い捨てる文化はあれど、土器としてしっかり作られていた食器まで使い捨てだった、という事に驚く人もどうやら多い様子。
一説にはこのような土器を使い捨てで使うことが、身分の高い人々の間では一種のステータスだったのでは、という説もあるんだそうです。
続いて湯築城資料館の南側に位置するのが、武家屋敷1と呼ばれる施設。
この武家屋敷は発掘で明らかになった当時の建物の基盤をそのまま復元し、まさに500年前にこの場所にそっくりそのままあったであろう建物を再現した展示館でもあります。
館内も、500年前の当時の建物の造りを発掘調査で明らかになった結果からなるべくそのままに再現。
中には当時の人々の服装を模した人形も設置され、まるで500年前にタイムスリップしたかのような気分になる建物です。
さらに二つの建物からやや南東の方角にあるのが、武家屋敷2と呼ばれる建物。
こちらも湯築城資料館と同じく、城跡の出土品などを展示している展示館です。
この武家屋敷に関しても、発掘調査によって判明した建築物の基盤から復元された建物。
展示物の並ぶ建物内の間取りまでは明らかになっていませんが、約500年前に間違いなく同じ場所にほぼ同じ形のお屋敷があったことが調査で判明しています。
館内で展示される資料だけでなく、その場所からも500年前の景色や人々や暮らしを垣間見ることのできる3つの展示館。
訪れた際はぜひ中だけでなく、その外観からも当時の風景に思いを馳せてみても面白いかもしれません。
建物だけじゃない!公園エリア一帯に残された戦国時代の暮らしの痕跡
さらに先ほどもご紹介したように、この湯築城跡の見どころは建物である資料館だけに留まりません。
資料館などが立ち並ぶ復元地域一帯が、その名の通り発掘調査を元に500年前当時のこの地域一帯の造りが復元されたエリアともなっています。
資料館のあるエリアに住む人々より、さらに上の位となる武士が住んでいたと予測されているのが、こちらの庭園区・上級武士居住区。
公園や広場のように見える広々とした空間にある池などの庭園域、そして隣接する居住域。
これらも全て調査で明らかになった、当時存在していたであろう造りをそのまま復元したものになります。
敷地内に埋まっている石も、発掘調査で発見された当時の建物の基礎の目印。
ところどころにあるコンクリートが埋まった区画は、詳しい間取りや造りこそ不明であるものの、500年前に確かにここに何かしらの建築物があったことを示す印でもあります。
先述の大量の器が捨てられていた穴や、敷地内に昔作られていた池なども、調査の結果から実際にそれらがあった場所に復元されました。
当時の人が生活していたこの地域一帯で、どのような暮らしが行われ、彼らがどのような景色を見ていたのか。
戦国時代の景色を現代の令和の時代に生きる私たちが追体験できるのが、この復元区域の大きな特徴とも言えるでしょう。
さらに特筆すべきは、このお堀一帯を囲む小高い土塁。
この土塁を縦に切るような形で土塁内部の地層の構造や築造過程を見ることのできる断面図の展示は、全国的にも非常に珍しい内容とのこと。
今のような技術もない500年も昔にどのような方法で、人間の背丈よりもずっと高い土塁を築いたのか。
当時の人々の工夫と知恵が垣間見える、そんな展示でもあるようです。
毎年恒例!道後公園のお花見と併せてこの町の歴史にも触れてみよう
現地で行われた発掘調査で明らかとなった、500年前のこの地域一帯をそのままに復元した湯築城跡。
および、それらの調査で出土した資料を多数展示する湯築城資料館。
当時の人々が見ていたかもしれない景色や彼らの生活を、まるで目の前で直接目にしているかのような。
そんな息遣いを感じる展示が楽しめるのが、何よりの大きな魅力でしょう。
まだまだ寒い冬が続く中それもきっとあっという間に過ぎ去り、またこの道後公園周辺に満開の桜が咲き誇る、春の季節がやってきます。
ぜひ今年は道後公園でのお花見と併せて、そんな松山の歴史を色濃く感じられるこの資料館に足を運んでみてはいかがでしょうか。
もしかしたら、あなたのまだ知らない道後や湯築城跡の魅力が、ここで再発見できるかもしれませんよ。
■ 湯築城資料館
住所:愛媛県松山市道後公園
TEL:089-941-1480
問合先:湯築城資料館管理事務所
営業時間:9:00~17:00
定休日:月曜(祝日の場合は翌日火曜)
料金:無料
駐車場:有(30分100円)
イマナニで「湯築城資料館」の情報を見る
湯築城資料館 公式HPはこちら